夏なのに雪国

akrh2007-08-25

いかに量産の船戸センセイといえども、さすがに持ち駒がなくなってきた。
それで下川裕治バンコクものとかに手を出したりして。
そうすると、トラベルライターの禁じ手というか教訓というか、読んでいて考えさせられる個所も見えてきたりして。
そう、むろん僕自身がそこに陥っている可能性も大であるからして、批判というよりも自らに課す教訓なのである。
いちばん大きいのは、「この国の人たちはこうだ」と十把一からげにジャッジしてしまう態度だろう。
読者というのは、とくにトラベルライティングの場合は読者というより旅行者である場合があり、そうすると一言で言ってもらいたがる傾向を否めない。
ああでもないこうでもないなんて言うとまどろっこしがられるのがオチで、何が言いたいのかわかんないなどという感想をもたれてしまうのである。だが事実は、ああでもなくこうでもないのである。あるいは、ああでもありそうでもある。
それでは本にならないので、できるだけ単純化して言うことを求められる。ひどい場合には、一言で言ってしまうことを求められる。その方がウケる。困った時代になったものである。
それと現地の人のことを見下しているのではないかというところかな。G8の遊び人が途上国を旅すると、どうして日本のようにいかないのか、とイライラすることがある。ショートカットして先進国流のソリューションを提供したい気持ちにもなるだろう。しかし、先進国が途上国に置いてけぼりにしてきたものは戦争や紛争であり、低開発である。
トラベルライターにとって、旅先はメシのたねではない。師匠である。その点を教訓としなければと、めったに旅モノを書いていない僕も気持ちを新たにしたものだ。
さて、
そんなバンコクの古本屋で『古都』を見つけて読んだのは何年前だったか。
この度は、宿河原の古本屋がとうとう店仕舞いするというので、半額になった『雪国』をそういえば読んでいなかったと買って読む。
えっ、こんなアダルトな物語なのと驚きつつも、川端センセイの繊細な感性には敬服致しました。
夏の終りに川端センセイなんて、高校生のような読書である。